仕事は、
その人なりのコミュニケーションの道具である
ということを、本日、友達と確認!
もちろん生活の糧を得る手段でもあるけど。
友達いわく、「そう思うと、とってもわくわくする!」 でした。
確かにそうだなあ。
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その人なりのコミュニケーションの道具である
ということを、本日、友達と確認!
もちろん生活の糧を得る手段でもあるけど。
友達いわく、「そう思うと、とってもわくわくする!」 でした。
確かにそうだなあ。
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昨日看護士である友人から、看護士や介護士は、使い捨てのような状況で働いているのが現状、という話をきく。
過酷な状況で実直に働いても、それ相応に報いられず、敬意も払われないことさえあるとのことだ。
その状況に、いてもたってもいられなくて、自分の会社をつくった彼女。
その話を聞いていて、消費されてしまう仕事(=デザイン)はなるべくしたくない、と常日頃思ってる自分にあらためて気付く。
逆に消費されてしまわないものって、どんなかたち???
そしてそれが、何処に在るのか、私の場合はどうやればいいのか、模索中。
参考までに、さきの看護士の友人は、自分の会社のHPで、
病院から私たち看護職が飛び出せばOne to Oneのケアが提供できるのではないか?
と綴っている。彼女はこうやって、自分の足で踏み出したのだな。
+
看護職が女性のカラダとココロを支援する、という彼女の会社CuLiCa(キュリカ)のホームページがリニューアルされました。キュリカの理念・サービス内容が、より具体的に掲載されています。
そして私parammmは、キュリカの妊産婦支援サービスのオプションプラン等で写真撮影・写真集編集を担当します。また、キュリカのHPのトップ画像は、parammmが撮影したもの。
ご興味のある方は、CuLiCa(キュリカ)のHPをのぞいてみてください。
http://culica.jp/
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昨日友達から嬉しい話を聞いた。
「ある機会に合わせて、(作品を)つくってみようかと思っている。」
ということ。
その友達の卒業制作を見たときはアーティストになるのかと思った程、彼女はしっかり芯のあるものを表現していました。だけど、卒業後はいわゆるものづくりとは異なる仕事につき、卒業制作のようなアート(彼女はアートではなく、デザイン行為としてたようだけど)が見れるのは、ずっと先かも、と思っていました。
そうしたら、昨日“その時がきたと思う”と、伝えてくれました。
きっかけは、最近学生時代の友達に久しぶりに会ったということ。
私の友達にとっては、ごく当たり前のように、単なる通過地点のようにつくった作品を、
鮮明に記憶していて“今はつくってないの?”という話になったのだろう。
自分(=彼女)がモノをつくることを待っている人がいる、ということに背中を押された、と友達はいいました。
私は「あの卒業制作のようなものをつくらないの?」とは、最近彼女に言っていないが、
私が何かしら待っていることは感じていて、それも後押しになったとのこと…。
そしてたぶん私のように彼女に期待している人は他にもいるので、それも感じたのだろう。
そんな話をしていて思い出したのは、“自分の仕事をつくる”のLW西村氏の講義中のことば、
“外の人が自分の可能性をみつけてくれる”
です。
自分の出来ることとは、自分では当たり前過ぎて、存外わからないものかもしれない。
実は、私もそんなふうに、人からみつけてもらったことがあります。
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今日は、テキスタイル雑貨の撮影でした。
商品のカラーが控え目だったので、少し小道具を添えても商品だけ撮るとなんだか物足りないなと思っていたのだけど、モデルさん(素人さん)に、持ってもらって撮影を始めたら、とたんに商品が活きてきたからびっくりしました。
頭の中ではそういうモノがあるというのは把握していたけど、感覚で感じるのは、ひさしぶり?
これって新鮮!とおもったのだけど、最近近しいもので、そういう感覚を覚えたのを今思い出しました。
それは、建物や街の写真も人が写っていた方が、私としてはしっくりくる、とういこと。
昨日はそれで、メキシコのどの写真をアップするか、さんざん悩んだのでした。
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手づくり靴をつくる友人の少し前の日記で、
“靴に刻印している通し番号が、今日500を越えました!#502に。”
とあった。自分以外の人のために作り始めカウントして、8年弱とのこと。
500足!!!
すごいなあ〜と、思って読んだあと、昼ご飯を作り始める。
料理してる最中に、“自分も番号うってみたらいいじゃん!”と思いつく。前にチャレンジオフィスの経営相談でキャリアカウンセラーの方に、今年1年は実績づくり(作品づくり)するのがいいのでは、とアドバイスされたのを思い出して。
仕事のものでも、普段のものでも、昔のものでも、自分がいいと思えるように作った写真は、ナンバーをうっていってみよう。まず001は昨年撮影させてもらった、カンナ掛けのもの↑。ものづくりする人シリーズ。(これには人写ってないですけど 笑。)
そういえば、近しい友人は自分が制作したちっちゃい巾着にナンバーをつけている。というか、ナンバーで呼んでいる。この友人とこの前、“つくることは、考えること”という話になった。
たくさんつくって(撮って)、たくさん考えよう。
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今日は、ファッション雑貨をデザインし、みずから販売する女性起業家の方との打合せに出掛ける。
今回の私の仕事は、彼女の商品のイメージ写真を撮ることで、その下打ち合わせのためにオフィスを訪ねた。そして撮影予定のものの打合せの途中に、まだ具体的に商品化をしていない彼女がデザインした素敵なテキスタイルなども見せてもらった。
本来“布”というものが好きで、その布で何をつくったらいいとか考えるのも、とっても好き。そんなんで、写真の打合せを一時中断、それで何をつくったら売れるかという話で盛り上がる。私は全く消費者の立場で。
和のデザインがベースのポップな色使いの布だったので、簡単なところから、風呂敷とか、クッションカバーがいいかもなどという話がでて…とっても楽しかった。
こういう前向きな話を一緒にする時間ってとってもいい。次の本番撮影にむけていい雰囲気になったと思う。
そして素敵なモノや人に出会うことって、本当に仕事(つくること)の推進力になる!
あとは、当日天気がよいことを祈るのみ!
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今日、LW(リビングワールド)のサイトを久しぶりに訪れたら、はっとした文章があった。
センスウェアというエッセーで。
昨年末にこのLWの方の講義を受けたときの、
“何かモノをつくることを前提に考えているデザイナーより、
まずモノをつくることが必要かどうかから考えているデザイナーの方が、良い仕事をしている”
という言葉を思い出すが、このエッセーでは、
“プロダクティブであることと、
クリエイティブであることとは、まったく異なることだと思う”
さらには、
“夕陽にこころを奪われている人はなにもつくっていない。
けど、その内面は十分に創造的なのでは?”
と、語られている。
これを読んで気付いたのは、最近カメラという道具を手にすることによって、建築設計だけをやっていたときに気にかかっていたことから、少し開放されバランスがとりやすくなったということ。(あくまで私自身のケースです。)
私にとって写真を撮るということは、プロダクティブよりは、少し軽い。そしてそれは、コミュニケーションの道具ともなり、そのこと自体を求められることもあるのだ。
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このブログでよくとりあげる“自分の仕事をつくる”という本で、
“矛盾を感じさせない仕事”
という言葉が登場する。
ここでは、東京で天然酵母をつかったパンづくりをする方へのインタビューが載っている。
「…(パンづくりは)ごく気軽にはじめたんですが、この仕事はそれまで経験した仕事に比べて矛盾がなかったんです。(中略)そのパンは、自分でつくっていても気持ちいいし、人にもすごく喜んでもらえる。素材だってカラダにいいものしか入っていない。とにかく全体的に矛盾が感じられなかったんです。…」
これを読んだ時、こういう仕事の仕方っていうのがあるんだなあ、と驚いたものだ。
経営的に成り立っていて、こんなふうに仕事している人って、いったいどのくらいいるのだろうか、ごく少ないのではないかと。
でも、先日茅葺きの現場をみて、そして茅葺き職人さんのつづるブログをよんで、こちらの茅葺き職人さんたちは、この“矛盾を感じさせない仕事”に近いものをしているのではないかと、感じました。
材料となる茅場の手入れをし、刈り入れ、そしてストックをし、その上で屋根に茅を葺く。葺かれた茅は、年月とともに風化して、やがては土に還っていく。
屋根を葺くところだけを見ていると、他の建設現場と別段異なったものにも思えないかもしれませんが、大きなサイクルでみると、かなり違ってくる。接着剤を使わない土壁がいつでも土に戻るのと、似ています。
「茅を葺くとは農業の一環に近いですね。」
という感想を茅葺き職人さんに伝えたら、
「茅葺き職人というよりも百姓が屋根を葺いている、そういった感じです。」
という言葉を貰いました。
矛盾のない仕事って、大きなサイクルがごく自然もののことを言うのだろうな。
環境に関わることに限らず、人との繋がりなども含めて。
フェアトレードをする会社に勤める私の友人は、会社のあり方や、モノのあり方・流れ・売り方等々、自分や社会にとって矛盾がないかということに対して感覚を鋭敏にしていて、よくその話をしてくれる。
私はそこまで広い視界は無いけど、デザインするという行為(写真を撮る〜空間をつくる)によって、人との出会いや繋がりをHappyにできたら、私にとっての矛盾のない状態だろうなと思う。

それとは知らずに撮っていましたが、この先端がチョンマゲのようなものは、茅束のようです。
こうやって立てて、乾燥するそうです。今年2月下旬、美山町の北村という集落にて。
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先週末茅葺き現場に行った時に、茅葺きについて知らないことばかりなのに、自分でも不思議なほど、あまり質問をしなかった。職人さんに何でも聞いていいと言われたにも関わらず。
そのあとなぜかと考えていたのだけど、それに今日気がついた。
私は茅葺き作業の行程を撮ることより、茅葺きをしている人を撮ることが、面白いと思ったのだ。
だから、知りたいことはたくさんあったけど、現場にいったら撮ることばかり考えていた。
あと、茅葺きの素材感がとにかく気持ちよくて、ほうけていたというのもあるかもしれませんが。(笑)
以前、かんながけの様子を撮ったときも、すごく面白かったのを思い出しました。
ものをつくっている時は、人が神経を研ぎすますとき。
だから撮るのが、面白いのかもしれません。
+
昼ご飯の後、職人さんたちは、皆刃物をを研いで午後からの仕事の準備をしていました。茅の断面を潰さずシャープに切るよう、刃を常に鋭利にしておくとのことです。
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軒先下を切りそろえている風景。大きな剪定ばさみのような刃物を使用。
前の日記でも書いた通り、昨日は茅葺き現場を見学。
とても良く晴れたので屋根付近は暑いかと思いきや、風がちょうどよく吹いて、屋根足場の上はとても気持ちよかった。さくさくした茅葺き面に倒れ込みたくなるくらい(笑)。でも写真でふかふかに見える茅葺きは、実際は結構シャープな堅さに思えたので、そうしませんでしたが…。
この日は、茅を切りそろえて形をだし、いよいよ仕上げるという工程。この日の職人さんは4人。見学したときは、軒先を揃えるチームと、屋根面を切り整えるチームに別れて作業していました。
秩序だててでは無いですが、幾つかの作業を写真に納めました。

ピンクの糸は、軒先ラインのガイド。右半分は、これから切りそろえられていきます。

切り揃えたあとは、へらのような道具で、叩いて面を揃えています。

剪定しながら、時々屋根のデザインをチェック。
今回の屋根面は、僅かにむくった感じのデザインにしているとのこと。

適宜、切った茅を掃いて落とします。落とした後は軒先裏と同じように、巨大ヘラで、屋根面をたたいて茅を押し込み面を整えていました。

各種道具。私には使い方が判らない道具もあります。(後で調べてみます。)
これらの道具は、だいたいは手づくりするのだそうです。売ってないものが多いとのこと。
この日は、茅葺きの親方から、茅葺きの可能性について話を聞き、かなり現代的な素材・工法なんじゃないかと思いました(本気)。
茅葺屋親方のブログでもう少し勉強してから、またコメントします。↓
茅葺き職人のブログ http://www.kayabuki-ya.net/notebook/index.html
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ご近所の町家・鞍馬口ん家(くらまぐちんち)でシェアハウスしている友人がいる。
古くなっていた町家を借りて、自分たちの手で改装し住んでいる。住まい1階は共有スペース、時々ギャラリーや日本酒を皆で楽しむスペースとなる。最近その友人から聞いて面白かった事。
(彼は、他の自主改装している人たちのケースも良く知っている。)
「同じシェアハウスでも、単純にシェアしている場合と、自分の手で改装した上で同じ屋根の下に住むのでは、少し違った傾向がある。
単純にシェアしている場合は、主になった借りた人以外の住人は、(一般的に)あまり家に愛着を持たないが、
一緒に皆で手を動かして改装した場合は、誰が主になって借りているとかは関係なく、住人みんなが“自分のすまい”という愛着を感じている。」
よく使う道具とか、家具とか、革製品とか、メンテナンスが必要なものは、使えば使うほど愛着を感じるもの。
それと同じように、古い家の改装はメンテナンスにあたる。
モノや家には必ずメンテナンスが必要というのは、昨今では忘れられてる感覚。
時代に求められてるスピードというのは、少し罪だなと思う。
+
その鞍馬口ん家は、5/19〜6/17まで開催の楽町楽家というイベントに参加しています。期間中、常設展示およびイベントが開催されます。
楽町楽家・最終日 6/17(日)には、“日本酒Bar鞍馬口んち2007夏 奥播磨試飲会”があります。
この時期、夕暮れ時に町家で飲むお酒は、美味しいだろうな。
鞍馬口ん家 への問い合わせ kuramaguchinchi@yahoo.co.jp
鞍馬口ん家で開催のイベント・インフォメーション↓(拡大すると読めます。)

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今日は友人と茅葺きの現場を見学をしてきました。
現場まで行く道中、友人から聞いた言葉で覚えていたいことがあったのでメモ。
“いいモノをつくるものいいけど、自分は、いいモノがわかる人をつくりたい。”
“そうしたら、世の中はいいモノがきちんと残っていく、と思う。”
言われてみれば、“モノ”よりモノを使う“人”の方が、重要。
人を育てるって、並大抵じゃないけど。
これを聞いて私が思ったのは、いい仕事をするには、いい人に出会う必要がある、ということ。
まとめ過ぎかな(笑)?
+
茅葺きの現場を見学してきました。
山あいの小さな集落にある茅葺き家屋、茶祖・永谷宗円の生家。
(永谷宗円とは、茶や玉露の製法の基礎となる、青製煎茶法(宇治製法)を編み出し、煎茶を発明した人物だそうです。)
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先週末から出張していて、昨夜京都に戻ってきました。
東京・神楽坂に25日にオープンする京の伝統工芸セレクトショップ
“京もん” http://www.kyo-mon.com
の写真撮影に行ってました。
今回の東京滞在では、ずっと友人宅に宿泊。
夜帰るとたいてい友人夫妻と4歳になる娘さんが迎えてくれて、家族にいる家に帰って来た気分。
近況報告したり、他愛もないことを話たり、本当にリラックス。
友人は大学時代の授業・サークル、そして社会人になってからも良くつき合っていて、おまけに同業者(元デザイナー)、ちょっと話せばだいたい言いたいことは通じてしまうような相手で、ものづくりのことなんかも相談したりした。
彼女は今はデザイナーをしていないが、だからこそ、なのか一歩引いた目線で大きく物事を見れているように思った。そんな視点で私の迷ってることについて、率直に色々アドバイスしてくれて、かなり気分落ち着いたのだ。
一つはモノづくりのスピードや要領について。
彼女と話していて、私は大学時代、設計の課題に人より時間をかけないと、人並みに仕上がらないことを思い出す。人より時間をかけるのが、当たり前だったことを思い出したのでした。
要領の良い人は、とても羨ましいけど、自分は全然そういうタイプでないので、それを基準に考える必要がないということ。
そして、締め切りはもちろんあるのだけど、それまでどのくらい時間をかけるか、それは自分の納得のいくようにすればいいということ。
これを確認しただけで、本当にほっとした。
ほっとしたところで、ものづくりの自分ルールをもう一度考えてみる必要あり、です。
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昨日の友達とのやりとりで、聞いた話。
ゴッホという画家は、エキセントリックな絵を描き続けていた人、という見方があると思うが、
彼にとって見れば、目の間の美しい風景を、彼の目で見えたように絵に写し取っている、という行為のようだ。
その友達は、イサムノグチもしかり、と言っていた。
何か自分の中のものを、強い表現でもって人に見せようとしているとしているのではなく、
例えば、風景という自然を、シンプルに自分の目で写し取るという行為。
ゴッホと同じと自分でいうのは何だか憚られるが、私が写真を撮るときも、気持ち的には、これに近いものがある。自分の眼でみた美しいものを、出来るだけそれに近いかたちで撮るぞ、という気持ちなのだ。
その時は、
余計な作為の気持ちが抜け落ちている、
といったらよいだろうか。
これは、建築という仕事では、体験しにくいもののように思い、撮るという仕事が教えてくれたことだと思う。
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今日は友達の家で、和菓子をつくりながら、近況報告。
友達からは、とってもハッピーなニュース。というか、かなり重大な発見!
“自分のために、モノつくっていいということに気付いた。”
とのことだった。
前にその友達は、“自分はゴミをつくりたくない”と世の中に本当に必要なものをデザインしたいといっていた。
でも最近、ある本のゴッホについて書かれた文章を読んで、自分の作ったものが実際に良く使えるとかは置いといて、とりあえず気持ちの趣くままに、つくってもよいと、心底思ったとのことだった。
なんだか面白いもので、“(私が)このヒトには、ものづくりをしてほしい”という人が、やる気満々で、エネルギーがみなぎってる状態は、私も自然と“つくる”っていう力が湧いてくるのです。
大事な人がそういう状態にいるのは、本当に喜ばしいことだな。
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おとといは、錦市場ちかくの食べ物屋さんで、店の風景や料理を撮影した。
この日は、最近使い始めた新しいレンズを使う。単焦点(ズームなし)で、F1.4というとても明るいレンズ。
人を入れてその場の雰囲気を撮るという場合には、自分の位置どりさえ決めてしまえば、かえってズーム機能がないほうが、潔く構図を決めれていい瞬間を捉えられるように思う。
人と人とのいい瞬間を撮るって、本当に難しいなあと思うのだけど、あまり構えずに、とにかくシャッター切っていると、だんだん自分が乗ってくるというか、そこの場所での納めるべき瞬間がつかめてくるように、最近思ってる。
そして、お料理。
日本のお料理で、色が繊細だし、調理であまり油やみりんを使ってないものは艶も少ない。
素材の微妙な色と透明感、艶、影が強すぎない立体感を表現するのが大事かなと思う。
それから、お料理をその場で実際に食べるときは、お料理の香りとか、温かさとか、お店の賑わいとか、視覚的な情報以外にも、美味しさを感じさせてくれるものがある。でも、写真にそれら全部を納めることは難しいから、そのあたりも補ってくれるよう、視覚だけでパンチを与えるくらいに撮る必要があるなあと、改めて思う。

その日の歩いた錦市場。平日だというのに、とっても人が多かった。いつ行っても、ここの通りは、美味しそうで、盛りつけなんかもキレイなところが多くて、いつも目移りしてしまいます。
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先月のことになるが、学生に簡単な宿題(調べもの)をだした。
まだ授業の空き時間がないので、学生からの感想は聞いてないが、
“2005年グッドデザインのユニバーサル賞を受賞したDialog in the Dark(ダイアログ・イン・ザ・ダーク)について調べてきてください。”
というもの。
2005年のもので、世界、そして全国各地で開催されたようなので、ご存知の方もいると思いますが、
ダイアログ・イン・ザ・ダークのユニーバーサル賞についての詳細はコチラ
ダイアログ・イン・ザ・ダーク(日本)のホームページはコチラ
これらのサイトでは、真暗闇の中での体験について、あたりまえながら詳細な記事は載せてないので、学生は、ネットで検索して実際に体験した人のコメントを探すことになる。よって得られるものは、あくまで他人の感想を通した推測にはなるが、
開発したデザイナーがダイアログ・イン・ザ・ダークの意図として
五感の再生
新しいコミュニケーションデザイン
と、あげているように、
私の意図としては、日々の生活では、五感の中で視覚という感覚の比重が高いのは否めない、この体験では“眼が見えないというとこは、どういうことか”という観点でなく、“視覚以外の感覚を、充分に働かせた世界とは、どんなものか”という視点をもつ機会になれば、というもの。
それがユニバーサルデザインというものへの理解につながり、視能訓練士という視覚にまつわる仕事につく彼らに、視覚が不自由な人の他の感覚器についても、興味を持つきっかけになってくれればと思っている。
余談ですが。
ダイアログ・イン・ザ・ダークは体験していないけど、自身の真っ暗闇体験を思い出してみる。
養老天命反転地の切り閉じの間(だったと思う)
信州善光寺のお戒壇巡り
スキューバダイビングのナイトダイビング体験。
特にナイトダイビングは印象に残っている。
その時はうっかり皆からはぐれて迷子なって、暗闇の海中に一人でいるという体験をした。
本当にどうしようもなくなったら海面にあがって船を探せばいいので、さほど心配はしないで(だったと思う、他の人が心配するが)、手持ちの水中ライトを消して真っ暗闇を体験してみた。
自分の吐く息の音はするし、体は水のゆらぎを感じているけど、重力を感じず、自分の手元さえ見えない状況というのは、とても面白かった。
五感をすべて閉じられたとしても、“自分の存在というのは、意識だけで成り立つのでは”と感じた体験でした。
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先日、京の表現塾のホームページの画像のために、お題(笑)をもらった。
「和のイメージ画像を用意してください。(風景とか)」
前に撮影したものでもよいということなので、
手持ちのもので何かあるだろうと思っていたんだけど、あらためて
「和って???」
と、思ってしまった。ネット辞書で調べてみたら、和とは、倭とも書くとのこと、知らなかった。
辞書によれば、「中国・朝鮮で用いられた日本の古称。また、日本の自称。」、日本そのもののこと。
私に求められてるものは、和といっても、京都のものだろう。
この前知人に、「京都の建築とは、数寄、(極端にいえば)インテリア」というようなことを聞いた。これは、主に奈良時代の建築に対してのコメントだけれど。表現塾のメンバーが、創り出しているものも、主にインテリアで使うものばかり、そうかと思って、その日はまず茶室や書院のあるお寺に出掛けることにした。
出掛けるまで、そしてお寺についてからも、自分の中の「和」とは何だろうと、ぐるぐる考える。
頭に浮かぶのは、京都に来たばかりのころに見倒した、お寺(堂、書院、茶室、庭)の数々と、そして月並みだけど、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のイメージ。
生活に根付いた、きちんとした和って、案外知らないなあ、と気付く。
もっと京都探検しようと、と思う。
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安曇野のちひろ美術館にて。クジラのような雲とちいさな女の子。
ごく最近知り合いのなった方の日記で、著名な建築家の言葉をみつける。
「頼まれもしないのに絵を描く仕事を一杯しておけば、見つけてくれる人がいる。
大事なのはやるからには手を掛けて徹底的にやる。
無駄になるかもしれないが、頭、手、足を懸命に動かして備えを怠らない。」
私が、この言葉に反応したのは、先日知人と会ったときに、
自分の会いたい人にもっと会いにいく必要がある
と、思ったのと同時に、その時に自分の仕事の何かを持参するべきだと、思ったから。その自分の仕事とは私の場合、過去仕事では量が少ないから、これから作る必要がある。
それから、この“頼まれもしないのにする仕事”という言葉は、このブログでよく登場する“自分の仕事をつくる”という本にも、取り上げられている。
その章の結びには、
…要は、仕事の起点がどこにあるか、にある。
私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。
「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれていると思う。
私が今日思ったのは、頼まれもしないのにする仕事とは、自分自身(あるいはその一部)であるのだろう、ということ。
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parammmが写真撮影のお手伝いをしている京の表現塾が住生活情報マガジン“余はく”の創刊号の特集に掲載されました。
特集のタイトルは
「京都の美に遊ぶ」
伝統技術を活かした、新たな挑戦が京都から始まってます。
匠の技が創り出す「美」を、心の余白に取り入れてみては…。
と、いうもの。
京の表現塾(サロン)は、各工芸の組合青年部を横断的にまとめた京都最大の工芸組織。現在の構成は、京うちわ、絞り染め、鍛金・彫金、くみひも、表具、砥石、扇子、金襴裂地、和本、木工藝、陶芸等々。高い技術をもち、京都工芸のブランドとして守るべき一線は守りながら、現代生活に活きるものとして、使う人(消費者)を念頭に置いたものづくりし、手元に届けたいとしている。
直近の活動は、著名なテーブルディネーターの方を迎えて新宿伊勢丹での催事「日本の意匠 和のこころ」でした。予定では、5月中には、京の表現塾HPもアップされます。
今回この冊子に掲載された京の表現塾の写真は、表紙を含め全てparammmが撮影しました。

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京都の堺町画廊での ぽちてっくスプーン教室 に参加してきました。
自分の手でものをつくるって、本当に楽しい!
そして、本日ちょっと筋肉痛(笑)。
スプーンづくり体験、追って日記にアップします。
また、この堺町画廊で ぽちてっくてんその5 が開催中。
素敵な空間にLovelyなぽちてっくさんの家具が、展示されています。4/30(月)まで。
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“自分の仕事をつくる”
という本は、ふと本をひらいて拾い読みするたびに、“なるほどー”と思う言葉がつまってるな、と思う本。
自分で仕事をはじめてから特に。
今日ひっかかった言葉は、ヨーガンレールという著名なデザイナーの言葉。(インタビュー中のもの)
「自分の職業が何であるか、そういうことはあまり気にしません。
私は、モノをつくってるというだけでいいです(笑)。」
というもの。
いいなあと思う、けど、仕事って従来のカテゴリーにはまってるほうが、
何をやっている人かわかりやすいし、お客さんも、それに対する報酬も払いやすい。
つくる時は、この言葉のようにつくりたい。本来は、カテゴリーありきで、ものづくりを始めるわけではないし。
でもそれで報酬を得るなら、つくるものが、ある程度ほかの人にもわかりやすくて、だれかに必要とされないと。
最近、空間づくりと写真を撮ること両者について、考えてます。
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今日は書きたいことが幾つかあるけど、まずは前に書いた“ものづくりは気持ちのカタチ”のこと。
先週日曜日の友人宅でのお酒を飲む会が、持ち寄りだったので私も二品ほど作っていってみた。
“自分の食べたいもの”を。
だって、自分が食べたくなければ、他の人にとっても美味しいものにならない気がするんです(笑)。
基本的に日本酒のお伴の予定だったので、作ったのは、イワシの梅干し煮と、青豆ごはんのおにぎり。
イワシの梅干し煮は実家にいたときからの好物。(母のはショウガ入り)圧力鍋で炊いて、骨ごと食べれるように。
青豆ごはんは、最近食べたかったので。
塩と酒で、お米と炊きました。おにぎりの中身は、お豆とぶつかんない程度、と思って、昆布とシャケの2種。
あと、青菜のゆでて花かつおをかけたもの。お醤油かけて、とその場でいうのを忘れてしまった(笑)
私のは、こんな感じ。
この日は、他の友人の持ち寄りと、その場で料理してもらったもので、テーブルがいっぱいになって、だいたいで決めた宴なのに豪華になった。別に集まりのテーマは何もなかったけど、美味しい料理と、肩のこらないお喋りで、リラックスした休日の夜となりました。ちなみに、先の記事にかいた、モノをちゃっちゃとつくる友人は蒸しパンをつくってきてました!
…いいなあ、蒸しパンをさっさと作れるなんて…。
今日になって、一緒にいった友人から、
「鰯の梅煮もおにぎりも美味しかったです。また作ってください!」
とメールをもらった。
ものをつくって喜んでもらえるのは、素直に嬉しい。ご飯でも何でも。
なんだか、自分のちょっとした気持ちが伝わったようで。
「また、作ってください!」っていい言葉だなあ。
+
昨日京都御所を通ったら、サクラが今まさに満開のエリアがあったのでびっくりしました。
南西の八重サクラのエリア。(写真のサクラは美山町です)

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さっさとモノをつくる人に憧れる。
友達で器用な人がいて、ちゃちゃっと、服を縫ったり、おやつを自分で手づくりしたり。
彼女の家で、ホットケーキミックスから作ったんじゃないホットケーキをごちそうになった時は、かなり嬉しかった。
この前は、花見の席にいったら、手づくりのパウンドケーキがでてきて、
「こういうのって、いいなあ、いいなあ。」
と内心感激していた。
すごいのは、友達んちのロフトへ上がる梯子をつくった友達の彼氏。
彼女の部屋のロフトへ上がる階段(折りたたみ式)が、上げ下ろしが面倒なのを見て作ってくれたんだったと思う。だいたいの寸法を測っていって、神奈川県の自宅でパーツをつくり、京都に住む彼女のアパートのロフトに梯子を掛けてしまった。(パーツはどうやって運んだんだろう???)
こんなことって、建築家でできる人はたぶんいないだろうな(笑)。
さっさとこういうことが出来ていいなあと羨ましく思うのは、
「このひとにこれを食べさせたい!」
とか、
「このひとにはこれを贈りたい!」
と、気持ちが一番高まってるときに、それが出来ること。
ものを作るときの基本って、そこにあるような気がするなと、ふと思いました。
私の場合、写真がそれに近いかな。友達の結婚式の写真係の時に、友達の姪っ子の写真をちょっと作り込んで渡したときに、気に入ってもらえたのがとても嬉しかった。
あと食べ物なら、おにぎりなら出せるかな…。
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黄色く浮かび上がっているのは、菜の花。出町柳デルタ付近。
先週の話になるけど、さる雑誌に掲載される商品の写真撮影を見学する機会に恵まれた。
要するに、実績のあるプロのカメラマンさんの仕事をじっくり見ることが出来たのですー。
私も撮ったことのある、まさに同じものを撮影していたので、見学していて「なるほど〜、そうすればいいんだ〜」の連続でした。
職業柄、建築の竣工写真撮影の現場には立ち会ったことはあるけど、商品撮影は実は初めてでした。
そのカメラマンの方はフィルムカメラだったし機材やセットも比べ物になりませんが、かなり実際的な参考になった!
特に参考になったのは、光のつくり方。別置きのフラッシュ(投光器のような)を使用されていて、それそのものは同じことはできないにしても、反射板の置き方とかトレペでの柔らかいひかりのつくり方(配置)とか、フィルターの使い方とか、まず大収穫。プロがこうしていると判ったらそれを知ってる上で、自分はどう撮るか、少ない機材でどう対策を練るか、決めればいい。到達点(ある解答)が把握できて嬉しかった。
そういう機材的なテクニックの他で、おどろいたことが2つあった。
それは、アングルを決めるのがとにかく早いということ。
サッカーじゃないけど、“決定力がある”というのかなあ。
ポラロイドで試し取りを見せて頂いたので、だいたいどんな構図がわかっているのだけど、
いい意味ですごくオーソドックスに決めていた。(雑誌でのレイアウトもきっちり決まっていたこともある、たぶん。)
オーソドックスにきれいに撮るということに、ガチンコで勝負して、それも短時間でさっさと位置取りしていた。
その決定力が、すごいなと思った。それで、いいと思えることに。
私もたくさんたくさん経験を積んだら、そうなれるのだろうか…。
あとは、ピントがオートフォーカスじゃなかったこと。私にとっては意外でした。
たぶんオートフォーカスも出来るカメラだと思われるのだけど、手動でピント決めてました。
本当にここ1点だけにピントを合わせたいというときは、手動でやった方がいいのかな、などと(あくまで)推測。
この日は、いろいろな照明下での撮影やら、商品そして動く人(その商品の制作風景)の撮影やらを見学して、あたま飽和状態。
ああ、ほんとに面白かった。
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土曜日は京都の美山町宮島というエリアに出掛ける。
友人がデザインするパンフレットの素材のための写真撮影。
この仕事の私の受け持ち部分のおもしろいところは、1年通して4回ほど撮影し、四季折々の風景を納めるということ。今回は、もちろん桜。
この日は朝は天気がよくなるかと思えたのだけど、途中で雨がパラパラきたりしたので少し焦る。
桜のある風景はなんとか納めましたけど、反省も多々あり。
予報をみて天気が良くなると踏んでいたので、雨の対策をしていかなかったこととか、
天気とは関係ないけど、茅葺き屋根の家屋のギャラリー(屋根裏)の照明環境が撮影するのに難しかったこと。
また、できれば適度に人が入ってる風景(活きてる感じ)を撮ってくれればと、要望があったけど、そのシャッターのタイミングが難しかった。これについては、“やらせ”のような風景をとっては意味が無いけど、
ある程度自分の中でのイメージも必要だと感じる。
特に屋根裏のギャラリーの方は、絵の展示風景わかるようにしながらも、茅葺き屋根の構造や茅の素材感、破風から差し込む光の感じを、目に見えるそのまま撮りたかったので、その場で既存の照明の付け方を何パターンか試す。そして絵の額縁のガラスが反射するので、そうならないように確認しながら撮る。
それで小さな空間なのに、かなり時間を要する。出来るならば、事前に照明の状態をヒアリング要…。
今回の場合は、パンフレットの素材なので押さえておくべき風景がある程度決まっていたのだけど、それを自分が面白いと思う視点で、
「ワクワクしながら撮りつづけるということ」
は気持の上で訓練がいるなと思った。
ある程度のノルマはきちんと押さえながらも、遊ぶということ。
それ以上表現するものを撮るということ。
あたりまえだけど、これ!と思えるまで根気も必要…。
当初の予定の場所で撮影を終えたら、美山町の桜の名所もちょうどよく咲いてるからと、そちらにも寄る。
こちらで、何枚か撮っているうちに、かなりリラックスしてきて、とても面白い風景を見つける。
花びらではなく、5枚花弁がしっかりついた桜の花が落ちてくるので、「?」と思って見上げたら、
小さな鳥が桜に停まって、花をついばんで蜜を吸っては、くちばしから離して落としているのだった。
結構な早さで吸っては落とし、吸っては落としで、花が降ってきてるみたいでした。
次の美山での撮影はおそらく5月、新緑の頃です。
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最近は4月からはじまる授業の準備をしていますが、一方ちょこちょこ写真を作ってます。
昨日ワーク↓
クリックして拡大してみてください。現物より大きくなります(笑)。

個性的なデザインのサンゴのチョーカー。真っ赤な珊瑚。
このジュエリーのブランドは“INTINI”。
ミラノから、日本上陸。
4月11日から24日の期間中、神戸大丸の1階アクセサリー売り場で、展示販売されます。
SHOW at Kobe Daimaru
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少し前に映画の“かもめ食堂”を観た。
印象に残ったのは、透明感のある陽の光の色と、
本当に何度もでてくる俳優の小林聡美がコーヒーをいれるシーン。
具体的にいうと、コーヒーの方は、
「1日何十回となく手でいれるコーヒーが、お客さんに美味しい!と満足してもらえる」
という出来事自体が、気になった。
自分も毎朝、そしてトモダチが家に来た時なんかは、
コーヒーメーカーではなく、手でコーヒーをいれるのだけど、
コンスタントに美味しくいれるのって、なかなか難しいなと感じている。
毎朝の自分の分はともかくとして、豆の種類とか、お湯の加減とか、人数とかで、微妙に調節するのがうまくいかなかったり。
トモダチにいれる時などは、ちょっと緊張して余計、失敗したりして(笑)。
お客さんに美味しいコーヒーを入れるという、ごくシンプルに見える行為を
百発百中で出来るということは、お商売とはいえ、すごいなあと。
そして、自分の仕事のことを省みたりしました。
自分の仕事で、それは具体的に何に当たるかは、……いろいろあるかな。

+
最近やっとブラウンのコーヒーミル入手。
挽きたてのコーヒーの粉はお湯をそそぐと本当によく膨らんで嬉しい。
挽きたて豆での煎れ方、練習中。
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表紙に惹かれて、手に取った雑誌を開いてみたら、
表紙の佇まいを裏切らず、どちらかというとそれ以上の、紙面があった。
じっくり眺めたくなったので、創刊号を買ってみた。
(創刊号は昨年の6月であるから、すでに目にしている人もあるかもしれません。)
その雑誌、まだざっとしか目を通して無いけれど、
はっとするような言葉が幾つかあったので、拾いだしてみました。
生活が冒険になるデザイン
線をひいているときがある…。
なにかがいとおしくなったり、小さな光景を思い出したり、ときには不測の事態に陥ったとき。
それは、文字とも絵ともいえないものだ。
線のいるところは、「言葉」になりにくい言葉たちと、
「言葉」になりたい言葉たちと両方いる、へんなところかもしれない。
彼岸も此岸も、過去も現在もいっしょくたのような。
美しさは役に立つから美しいのではなく
美しいから役にたつ
生活の荒廃は、美意識の喪失から始まるのではないか。…(中略)
生活の時間、生活の空間そのものがなくなっている。
生活がなくなったのは、人と人、人ともの、ものとものをつなげる美意識がなくなったからだ。
つまりここでは、デザインとは生きる意思の別名となるだろう。
(“ここ”とは、この場面では、この雑誌のこと。)
昨今の「効率」はもちろん大事だ。
でも人生は、消費だけで埋め尽くされた生の時間ではない。
(雑誌 graphic/design より)
これから、この言葉たちを頭のなかでちょっと反芻してみます。
そして、この雑誌のたたずまいが、
「美しいものってなんだろう、もっと美しいものを見てみたい」
と、日々考えている友人がつくった小さな雑誌の雰囲気と
共通したものが在るとしばらくしてから気づいて、
興味深い偶然(必然?)だなあと、思いました。
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実は、前々から風呂敷を上手に使って出勤することに憧れていました。
風呂敷とか手ぬぐいとかの布の柄が好きなのと、行きは荷物をくるんでいって、帰りは荷物が無い時、畳んですっきり帰れるというのが、なんともかっこよく思えたから(笑)。
先日、写真を撮りに行った時に、三脚と背景に使う大きな紙を巻いていれた筒を入れるちょうどよいバッグがなかったので、適当に風呂敷で包んでいったら持ち運びやすかったのに味をしめて、今日も風呂敷で出勤してみました。
行きは箱ものをこんなふうに包んで。(さすがにお財布は、小さな別のカバンにいれています。)

実は風呂敷歴は長いのです。旅での服のパッキングには、昔から風呂敷を使ってました。ぎゅっと縛れるから、服のかさばりも押さえられるので。でも、あまり普段使いにはしていませんでした。
色々な包み方を勉強して、行きは風呂敷で荷物をさげていっても・帰りは“手ぶら”、あるいは逆の、買い物行くのに、行きは手ぶら・帰りは風呂敷でパッキングが理想です。
買い物袋を貰わないでいけたら、エコにもなるかな。
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先月行った天婦羅屋のかき揚げ丼。美味しそうに撮れてます?(笑)
先週訪問した先で京料理の弁当を頂いた。
美しい盛りつけに、「カメラに撮ろ!」と興奮したのだけど、なんというか、やはり料理を撮るのは難しい、とファインダーをのぞいた瞬間ゲンナリ。目の前にあるものは、美味しそうなのに、ファインダーから見える画像は、いたって平凡。カメラの電池がきれてたこともあって、その時はカメラのおさめなかった。
照明テクニックの本で、洋食、中華、日本料理、どれも(一般的に)適している照明が違うというのを読んだことがある。それはどんな材料をつかっているかで、美味しそうに見える照明が異なるというものだった。
少しうろ覚えであるが、そこで説明されていたものは、
日本料理は、繊細な素材の色(たとえば刺身とか)が忠実に見えて、細かいディテールまでつぶさず表現できる白色の間接照明、
洋食は、ハイライトと影がしっかりついて、立体感を表現できドラマチックにみえるような(肉料理とか)白熱灯のスポットライト、
中華料理は、たっぷり使われた油の光沢がキラキラと美しく見えるような、シャンデリアのような照明、
というもの(だったと思う)。たぶん、これはごくごく一般的な考え方で、お店のコンセプトによっては必ずしもこういう方法をとって無いとおもいますが。
この日は天気が悪くて和素材の色が青みがかってたので、ファインダー越しのお弁当が余計美味しそうに見えなかったのかも?
画像は味まで写せない。美味しく撮るってムズカシイです。

トップの画像と同じく先月訪れた東山の天婦羅屋のランチメニュー。
こちらは天茶。揚げたて天ぷらに熱いお茶を注いでもらいます。
天茶と天丼(かき揚げ丼)では、天ぷらの素材が違いました。天茶の方はサーモンとか入っていました。
私が食べた天丼の方では、エビはもちろんのこと、トウモロコシの天ぷらが入って新鮮でした。天丼のタレは甘辛くておそらく唐辛子がつけてある醤油を使ってあったのでは、と思いました。甘辛い中にも少しぴりっとした感じあり。これがトウモロコシやカボチャの甘さとあうんだなー。
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金曜日に、知人のあつかうジュエリーの撮影をしてきました。貴石(自然物)を撮るって難しそうだなと思い、2週間くらい前に一度試し取りさせてもらい、自分なりに対策をたてて、再度のぞんだ、という感じ。
撮り方は少し迷ったけど、試し取りの画像を見て「自然光のもとで、撮ったものがいいな」と言ったそのジュエリーを扱う知人の言葉に導かれて、自然光でなるべくシンプルに撮ることにしました。そしてやはり身につけた状態で撮るのがいいなと思い、ショールームにあったトルソに着せて。
撮ったジュエリーは、素材やフォルムがそれぞれ特徴的なものを選んで、ブランドのコンセプトそのものを表現しているようなものから、個人的に私がすごく気に入ったもの(自分に似合うかどうかは別)を数点。
ここで、その日の発見。
写真を撮るのも神経を使うが、そのジュエリーが際立つようトルソに着せることは、簡単ではない!
服に着こなし方があるように、ジュエリーも美しくみえるように着けなければ、きれいに撮れない…。先日の試し取りのように、布の上なんかに置いて撮るほうが易しいように思ったが、ジュエリーってやっぱり身につけるものだからなあ…、とトルソを前に四苦八苦。先日、バッグの撮影で同じような苦労をしたけど、ここでも着せるのにかなり時間を割きました。
でも、自分が納得いくように着せてしまえば、あとはそのまま美しく見えるように撮ればいい。
好きなジュエリーばかりなので、アップで撮ったり、ひいて撮ったり、コントラストがつくように撮ったり、少し逆光で撮ったり、絞りを空けたり極力絞ったり。自分の気の済むまでたくさん撮りました。
今日はその写真の加工(加工というより、コンピュータで絵をつくってると言いたいところ)をしていましたが、好きなものを撮るということは、カメラに納めるのも楽しいし、そのあと加工も本当に楽しい。
“執着”という言葉が合うほど、好きなモノ(あるいはコト)に接して仕事をしたいと、つくづく思ったのでした。
+
トップの画像は、その撮影したものです。まだ、加工中のものですが。
このジュエリーはINTINIというブランドのコンセプトそのままいっていいデザイン。鮮やかな赤の石はサンゴです。このジュエリーは身につけるというより、もうアート作品ですね。
イタリアン・ジュエリーINTINIは、AILAで取り扱いしています。
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最近午前中は自宅で仕事をしている。
というのは、撮影した写真画像をコンピュータで調整したり、プリントアウトして色をみたりするのに、自室の自然光のもとで作業したほうが都合がよいから。
オフィスの人工照明で色が見にくいのである。
これはたぶん間違ってない法則だと思うけど、自然光の下で美しいと思った色は、人工照明の下でも綺麗に見える。だけど不思議なことに逆が成り立つとは限らない。
建設会社のインテリアデザイン部に勤務していた時の上司には、基本はまず自然光のもとで塗装色や素材の色を選定、と教えられました。夜になってしまって、時間が限られてる時はデスクライトの下でもしょうがないけど、ちょっとでも時間あれば次の日にもう一度自然光のもとで確認しなさいとよく言われました。
勤めていたオフィスには自然光がよく入るアトリウムがあり、そこへ塗装見本や仕上げサンプルをかかえていって、色を決めたものでした。
今はそれを自宅でやっているのだけど、自然光で無理なく色がみれるのは午前中から午後3時前くらいまで。
それ以降になると、暗くなってきて光が青みを帯びてきます。(部屋が北向きだから)
充分明るいうちに仕事をするっていうのは、ちょっと農業を営む人になった気分、なんだか気持ちいい。
写真をつくってるのに(笑)。
でも、画家のアトリエもそうだから、そう考えたら自然なことですね。
グラフィックデザイナーとかもこんな感じなんでしょうか。

京都御所では桜が咲き始めてます。御所北西部しだれ桜ゾーンの数本。桃もまだ咲いてます。
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昨日、友人と映像アーティスト・音楽クリエーターである高木正勝のDVDを観ていた時のこと。
このアルバムには映像と音楽がセットになったDVDもついていて、それを見ながら持ち主の友人が、「この映像のこの曲は、(音楽だけの)アルバムの方には入っていないのだ」と、解説してくれる。それは、見れば自ずと気付くことなのだけど、映像とセットであってこそ表現できる音楽なのである。
友人が「これがアーティストなのだろうな。」という意味のことを言った。それは、映像と一緒にしか存在しえない音楽を、音だけのアルバムに無理矢理入れないということである。
それから「デザイナーなら、全部見せてしまうだろうけど」、という言葉も。
充分承知していたことなのに、何かしら痛いような、かゆいような気持ちになった。
アルバム“Coieda”。
CoiedaのDVDのPhotoSample・映像等、一部コチラでみれます。
私が昨日みていいなと思ったのはPrimoというタイトルのもの。
高木正勝のHPも美しいです。
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昨日友人のオフィスに行った時に、持っていた写真集をキレイなものが好きな彼女に見せる。
それは、撮影の小道具といして持っていったものだけど、私がとっても好きなFLORAという写真集。Nick Knightという写真家の作品で大英帝国時代から収集され、ロンドンの自然史博物館に収蔵されている 押し花や押し葉を撮影したもの。

表紙の写真からも察することができるが、押し花標本といっても、色もきれいだし(バックライトを使っている?)、何よりそのフォルムが到底人間の造形するものが辿り着けないような美しさである。それこそ宝石のよう。
この写真集を初めて手にした時、自分がやっていること(ものづくり)って、いったい何?みたいな疑問を持ってしまったくらい衝撃的な美しさなのです…。
昨日あらためて友人と見て、この自然の造形物そしてこれを撮った写真家には、到底及ばないにしろ、このくらいパンチの効いたものをつくりたいなあと、なんだかゾクゾクしたものでした。
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AILAが取り扱うDANIERA DE MARCHIのジュエリー。石の色彩、カットがとにかく美しい。
今週の火曜日に、ジュエリーショップをする知人のショールームを訪ねて、彼女が扱うジュエリーを試撮影させてもらう。
知人の扱うジュエリーは、イタリアのデザイナーによるもので、日本では目にすることができないような、おおぶりでナチュラルな貴石あるいは半貴石をふんだんにあしらったもの。しかし、たっぷりとしたボリュームなのに、アンシンメトリーなデザインや石の散りばめ方で、身につけてみると想像するほど重々しい感じにならないのである。
今回は試し撮影であったのだけど、光や石の種類によって、ジュエリーの見え方が全く異なってくるのが、改めて面白かった!
柔らかい自然光の中での石、
ドラマチックにスポットが当たった時の石、
主張のはっきりしている色の石、
水彩画のような微妙な色合いの石、
透明感のある石、
カットが素晴らしい石、
またそれぞれは絡みあっている。
石をいかにきれいに撮るかに尽きるなあと感じる。
私らしい撮り方を考えて、本撮影にのぞもうと思います。
+
知人の経営するAILAは、先週大阪心斎橋にショールームをオープンしました。
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今週の火曜日に
記憶と記録のつくり方 連続講座の「写真を通してケアを考える」
のお話しを聞いてきました。
講座では、
沖縄を撮り続けて来た(空白期間もあるが)写真家が話し手で、 (=写真を撮る人)
地域福祉実践に関わりながら、高齢者・障害者(児)の地域生活を支えるための方法に関する研究をしている、大学講師・社会福祉士の方が聞き手 (=ケアする人)
であった。
今日はまず、その講義で私がとったメモを書き散らかしておきます。
-コミュニティをカメラを通して関わる
-コミュニティから離れても、写真を届け続けた
-写真とは見る行為、ケアも見る行為、両方とも洞察力が要る。
-写真を撮ることも、ケアすることも感受性が必要、相手との関係性の上に成り立つ。
-思考としての写真
-写真とは、人間の尊厳も写しとる。
-「見る」で大事なことは、見つめ続けること。ケアも写真も連続的な関係。
-「見つめ続けること」は、本来家族の役割、地域の役割、だった。
追って、日記書きます。
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今日、
「さるところに京都伝統工芸の写真を送るから、現代に活きる作品を1点づつくらいピックアップしてください。」
との連絡があって、自分が撮影した伝統工芸の数々の写真を見直してみる。
いざ選ぼうとすると、なんだか難しかった。
今迄に撮影したのは、京うちわ、組み紐、表具、金襴、指物、絞り染め、砥石。
撮ったものをみてみると、まぎれもなく昔からの技術で作られたものなのだけど、どれも今私たちが暮らしている現代に充分活かせるものと思えた。(これは、本当にそう思った)
すでに現代性をもった商品に仕立てている老舗さんもあるし、これから、というところもあるけど、「過去の遺物」と見えるものは、一つも無いと思う。
だから、写真の選択が難しかったのでした。
結局は伝統的なテクニックが際立っていて、かつモダンに見えそうなものを選んだつもり。
その高度で洗練されたテクニックを必要としてくれる場がもっと増えるといいと思いう。それを本当に必要としてくれる多くの人々に出会うのは、たぶんこれから。
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訪問先の寛ぎスペース。ここは茅葺きではなく、古い木造の校舎を移築し現代的にアレンジして使用している。天井が低いのがここちよい。
+
旅行会社を営む友人の写真係として同行した美山町訪問では、観光協会の方のおすすめで、6軒ほど、それぞれとっても個性があるお食事どころ・お泊まりどころを見学することができた。
うち、茅葺き屋根の家屋で営まれているところ3軒。でも同じ茅葺きといってもオーナーの趣味嗜好で驚くほどカラーの違う空間になっている!かなり面白いものだった。
それぞれは、個性的なオーナーの趣味で集められた骨董に囲まれた密度濃い空間、古い民家であるには違いないが爽やかで明るいもてなし空間、それからオーナーの洗練された感覚で吟味されしつらえられた空間、といった感じ。空間を見せてもらいつつ、オーナーのお話しをきいていると、どんな風に訪れたお客さんを迎えたいか、はっきりと見えてくるのがまた面白い。
今ふりかえってみると、通常はお客さんが宿(あるいはお食事どころ)を選ぶのだけど、宿も自然とお客さんを選ぶといった感じだった(笑)。
また、旅行業のプロである友人の視点がおもしろかった。今回訪れたところは本当にユニークなところばかりで、あれもこれも撮らなきゃみたいな感じで、私はテンションあがりっぱなし、そして目が回りそうな感じだったのだけど、友人は、ここの宿はどんな人にうける、こんなシチュエーションで楽しめるなど、即座に答を出していた。たいがいは次の目的地への移動の車中でそんな話をしていて、その答の理由をきくと消費者からみてもいちいち納得するのだった。
この日彼女から聞いた話で印象に残っているのは、お泊まりどころでも、食べるところでも
「とにかく数を見る、食べるのが大事」
と、明言していた。
多くの物件をみているからこそ、てきぱきと自信をもって、ここはいい・よくないと判断できるのだろう。
空間とは個人的な鑑賞の対象で、いつもはゆっくりじっくり体験している私には、新鮮な視点だったのでした。
+
旅行業を営む友人のこの日のブログ
ちぇるかの日記「京都の田舎モダン*大人女性旅仕様」
茅葺き屋根のInnとCafe、茅葺き屋根ではないけど、こだわりたっぷりのオーベルジュが紹介されています。
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昨日は旅行会社をしている友人に同行して茅葺き屋根の美しい集落が残る美山町に訪れ、再び写真係。
6軒ほど、宿や食事どころをまわって、写真をいっぱい撮りました。朝イチから活動していたけど、6軒分と茅葺きの集落を写真に収めることは、ほとんどスポーツしている感覚(笑)。考えて構図を決めて撮るというより、反射神経でシャッター切って、片耳ではオーナーの話をなるべく聞き漏らさないようにする、みたいな感じ。
でも、1日で美山町を愛するいろんな方々に会えて、ほっんとに充実してました。つくづくラッキーな一日だったと思う。
今日はその写真の整理、そして別の友人のフォトブックの写真画像の仕上げをしていました。
一つ一つの写真を撮ることもそうそう簡単とも言えないのですが、それを一つのフォトブックとしてまとめることもそれなりに手間を要して、単に“右から左”というような作業ではないと実感しました。
でも、このフォトブックの方の友人の活動は、私がチャレンジオフィスに入居した当時から注目していたので、彼女のお手伝いを、私のささいな能力を使って出来たことは正直に嬉しい!ちょっと感慨深いです…。
さきほど、やっとその作業がひととおり終わって、このブログかいてます。
今日はもう、遅くなってしまったので、明日美山町での体験を書こうと思います。

美山町では、前々から聞いていた友人の陶芸の師匠のお宅も訪問。茅葺き屋根の民家ですごく洗練された住まい方をしてらした。素敵な空間にかなり感激、そしてしっかり寛ぎました(笑)。
民家の空間に、イサム・ノグチの照明、スウェーデン製の薪ストーブ、火鉢、コーヒーとケーキ、全部しっくりきていて面白かったです。
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昨日友人とレイトショーでドキュメンタリー映画「不都合な真実」を見た。
京都議定書に批准しないアメリカで地球温暖化対策にずっと昔から(学生時代から?)取り組んで来たGore氏の活動がテーマだが、この映画を見る前に新聞記事を読んで興味をもっていたことがある。それは、映画中Gore氏がMacintoshのPowerBookを駆使しているということ。私も同じくPowerBookG4ユーザー(ただし、サイズは異なる)で、どんなふうに使いこなしているか、とても興味があった。だから、というわけでないですが、一緒に見に行った友人も同じくPBG4ユーザーでした。
映画を見て感じたのは、地球温暖化について警鐘を鳴らすGore氏のプレゼンテーションの明解さ、シンプルさ。加えてちょっと大袈裟かもしれないが、プレゼンテーション資料の美しさ。(新聞ではパワーポイントを使用していないことが特筆すべきと、書いてあった。)すごく助長していうと、Charles&Ray Eamesの教育用のスライドショーを見るような美しさチャーミングさ。特にグラフや模式図などの。
明解なスピーチとともにキレイな図で説明されると、するすると頭に入ってくる。言葉とイメージのバランスのよい組み合わせで頭にインプットされやすいものになっていると感じました。
単純にプレゼンテーション資料が美しいことも大事なのだなあと、実感。
今日アップルのサイトをチェックしたら、Gore氏がこの地球温暖化についての講演のプレゼンテーションに使っているアプリケーションはKeynoteというもの。美しい資料ができるだけでなく、Gore氏自身がプレゼンテーションをスタディするのも便利なよう。そして、時間が経つにしたがって明らかになってくる温暖化についてのデータの更新をスタッフが行うのも楽であるとのことでした。
映画を見終わって、PowerBookの話とは全然別に気付いたことがぽろぽろあった。
まず、Gore氏が大統領になっていたとしたら、アメリカの地球温暖化に対する取組みは現況とは全く異なったものになっていたと知る。それに驚く。とにかくアメリカのCO2排出量はダントツなので、地球規模でみても影響はかなりある。
また、映画というものは未だ影響力のある大衆に向けての周知ツールであると実感。
そして、自分の心にひっかかることについて、周囲の反応がどうであれ、考えつづけ、それについて活動をつづけることについての意味(多くの場合は、何か実りをもたらすのではないか)を改めて知る。

PowerMacG5を使用するGore氏。メインモニター右のモニターにうつる映像はイームズのスライドショーを連想します。
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先週の土曜日に、前に写真撮影させて頂いた伝統工芸を営む方々の会合に出席する。
その時に自分の撮った写真も何枚かプリントアウトして持参した。
それを見てもらっている折、綺麗と感じるところを一生懸命撮りました、ということを私が伝えたら、
「それが何なのか、私たちに教えてほしい」
と、美しい団扇をつくる老舗の方に言葉を頂いた。
家に帰ってから、私か今回の撮影で感じたものって何だろう、とあらためて思い返してみた。目にしたことがある限りのヨーロッパやアジア、メキシコなどの古い文化と比較して感じたのは、
月並みかもしれないけど、
繊細さ、素材の扱い、微妙な色彩、
でも際立つのは
“極められた抽象性”と“豊かな季節感”
かなと感じた。
これらの美しさとは、京都の文化の美しさであり、おそらく日本の美しさでもあるのだろうな。
そして、現代の生活でも活かすことが出来るものだろうと思う。
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少し前に知人からもらったチラシ。
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-記憶と記録のつくり方- 連続講座
哲学する写真「写真を通してケアについて考える」
(抜粋)…写真は、誰にとっても記録のための身近な道具ですが、それは単なる記録ではなく、記憶を共有したり、新たな思いを想い起こさせたり、人と人をつなぎ、世界を開いていくことができる能力をもっています。…
(沖縄の興味のある人なら、雰囲気でそれとなしに沖縄の離島で撮影されたとわかる大家族のモノクロームの写真が載っている)
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サイトはコチラ
チラシを貰った時も面白そうだなと思っていたけど、先日赤ちゃんとお母さん・お父さんの写真を撮影、そしてそのちっちゃなフォトブックを編集していて、撮影時の自分の体験とそのチラシの講座がすごく関係あるような気がしてきている。で、その講座の1回に申込みました。
赤ちゃんとお母さん・お父さんの写真の撮影は、たんに偶然ある家族の幸せの瞬間に立ち会った(傍観者)というだけでなく、何か自分も「関わった」気がしたのです。多少なりとも。その何かはちっちゃなフォトブックが出来た時にわかるかな?
それにしてもこの講座の申込先である
「アートミーツケア学会」
って素敵な名前です。 アートミーツケア学会についてはコチラ
Mexicoにて。
庭に植えられた大きな樹、アドベ(土レンガ)の家、積み上げられたトウモロコシ、ランニング姿のおっちゃん(家の主人)とちっちゃな息子、おばあちゃん。
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ちょっと先の話だけど、4月にPotitek(ぽちてっく)さんが開くスプーン教室に参加する。
先日ぽちてっくさんが工房として使用しているユニークな共同オフィスを訪ねた時にスプーン教室のことを知り、友人と一緒にその場で申込みをした。
木のスプーンを作るという教室で、流れとしてはあらかじめ荒く形を取られた木のカタマリを選んで(大きさ、かたち、樹種、いろいろあります)、のみや小刀、ちびカンナを使って成形し、サンドペーパーでみがき、最後は植物性のオイルでぴかぴかに磨いて仕上げるというもの。本当に何も手を施してない木を成形するところから始めると、二日ががりにもなってしまうので、おおまかに型取りしてある木からスタートするとのこと。
教室の話を聞いて私が特に気に入ったのは、スプーンづくりの最後に自分でつくったスプーンで実際に食事をするということ!自分が実際に手を動かして一生懸命なんとか形にした「作品」で、すぐに食事ができるなんで、凄くいい!それに、疲れて途中でくじけそうになっても、鼻先のニンジンのような役目を果たしてくれるかな(笑)。
“たべる”ということは、誰もが必ず行う行為で、お腹も心も楽しく満たされる時間ですよね。その行為に使う自分にとっても親密な道具を、好きな木を選んで、自分でつくりあげるなんて幸せを感じそう(おおげさ?笑)。
つくるものがスプーンであるというのもいいなあと思う。箸でもなく(いいと思うけど、かたち的にシャープすぎる)、フォークでもなく(削るの難しそう)、ナイフでもない(バターナイフならいいかな。でも使用頻度はスプーンが勝ち)。
一緒に参加予定の友人は、ちびスプーンを作って端部に穴を空けて、革ひもなんか通してペンダントにしてもいいかも、といっていた。これって、木のスプーンならではのアイデアかな。
ちょっと先のお話しですが、4月末がとっても楽しみです。
ぽちてっくのお仕事はオーダーの木製家具のデザイン・制作と木の小物づくり。私は珍しいように思うのですが、女性ふたりで活動する木工チームです。
制作されている家具は、木の風合いを活かした飽きのこないシンプルなデザイン、そしてちょこっと“ぽちてっくらしい”味つけがしてあって愛嬌を感じます。
スプーン教室は、木という素材と家具工房ぽちてっくの入門編となっているように思いました。
HPもシンプルでさわやかなデザインです。
木の家具工房ぽちてっく
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先日、指物をやっている作家の方の工房をうかがう機会があった。この時も写真係。
木を組み合わせてつくられた繊細な細工物を実際に手にとって眺めることができた。どんなにシャープにみえるものでも、よく見ると手に馴染むように僅かに角がおとしてある。
また、ここの仕事場には鉋が数えきれないほどあった。100台くらいあったのではないだろうか。作るものにあわせて使いわけていくのだろう。中には親指をふたまわりほど大きくしたようなワラジ型の鉋もあって、あまりの小ささと、でもよく出来ているのにびっくりする。
木をくり抜いていって作った盆などを見せてもらったのだけど、それを成形する時に使うと聞いた。これで、わずかにわずかに木をくりぬいていくのだ。
つくられたものと一緒に道具の数々を目にしたせいもあるのだろうが、かなりエッジのきいてる作品でも、何かしら工業製品には無い手の跡を感じた。人の手を使って時間をかけて丁寧につくられたというような。
今もその木のやさしい肌触りを、思い出すことができる。
これって、誰しも直感的にわかるのではないかなと思った。意識すらしてない場合もあるかもしれないけど。
たぶん私の仕事にも言えるのだろうな。

いい感じに散らかってるカンナ屑。(記事の指物の工房ではありません)
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今日は知人の本づくりで、写真について話し合う。
その写真とは、先日私が生後二日目の赤ちゃんとそのお母さんお父さんを撮ったのもの、そして半分ほどはその知人が撮った記録的なもの。
知人が文章を構成したものにそれらの写真をつけて、ちっちゃな写真集をつくるということだ。
知人はお母さんと赤ちゃん(正確に言えば、妊娠時から)をサポートする仕事をしており、私が写真を撮らせてもらったお母さんとは、妊娠時に出会って無事出産の今にいたり、思い入れは私には到底はかりしれない程。
その本づくりのストーリーの流れ、そしてどの写真がそれにふさわしいか、私にスケッチをみせてくれながら、ベストにするにはどうするのがいいか四苦八苦しつつも、半分喜びの感じで興奮ぎみ。
その長い道のりの一番オイシイところを写真に撮らせてもらったようで、申し訳ないほどラッキーだなと思いつつ、それ以上に何か充足感を感じ、それはいったい何なのだろうと、知人の苦悩振り(=思い入れ振り)を見ながら考えていた。
漠然とだが、それは単に美しい瞬間を写真という形で切り取れたということだけでなく、“撮る”というかたちで、お母さんお父さん、赤ちゃん、それからサポートする知人とコミュニケーションしていたからではないかと、思った。たくさんの言葉を交わすことによるコミュニケーションというものではなくて、観察、そしてそれによる感情表現(私の)とか、実際の言葉による投げかけとか。
先週今週と、今回の知人の他にも写真を撮る機会があった。今こうして振り返ると撮るものが異なってはいたけど、それぞれのコミュニケーションがあったように思う。
そしてこの体験が、自分のデザインの仕事に何らかしら役に立つのではないかと、漠然とだが感じている。
“かんな掛け”の図。木工をやってる知人に、練習で写真を撮らせてもらいました。
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最近、写真を撮らせてもらう機会(自分でやりたいと手を挙げている)があるのだけど、写真撮影というものは、本業の設計の仕事とは、1つの仕事に関わっている時間がまったく異なってそれがとても面白い。刺激的。
設計の仕事は時間が長くて、モチベーションの持続力というのがとにかく必要なのだけど、写真の方はどちらかというと、短い時間でどれだけ集中力を高めるかが求められるように思う。とにかくその場の一瞬で解決しなくちゃいけない、みたいなところがある。もちろんフィルムだったら紙焼きみたいな作業があるし、デジタルだったらコンピューターで加工したりの時間がもちろんあって、そちらはそちらで根気が必要とされるけど、シャッターを切る“瞬間”というのが一番の山場のように思う。
その異なるスパンのものを同時進行してやってるって、なんか自分の気持のバランスがいいように思えてきている。いままで体験したことない、不思議な感じです。

東山の建仁寺、唐子遊戯図のある間。壁に襖がはめ込まれているのが面白い。
旅行業を営む友人のBlogで祇園散策(建仁寺も)の紹介してます。
ちぇるか日記“京都大人の女性旅”
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昨日は知人の取材に同行し写真係をつとめる。
取材先は織物関係にたずさわる方々。
京都ってこんなに美しいものを作っているんだ!
私は京都のこと全然知らなかったんだ…。
というほど、美しいものに接することができた。大袈裟でなく。
どれもが、柔らかくて、艶があって、美しく微妙な色合い、そしてこれ以上無いほど繊細。
私は果たして、それらをちゃんとカメラに収めれるかどうか、その美しいものたちを見た瞬間にすっごく不安になりました。
…といってもしょうがないので、とにかく一生懸命シャッター切りました(笑)。
とにかく、たくさんたっくさん撮った!
そして取材が終わったあとに、その知人が言った言葉がとても面白かった。
「すごく古い文化(技術)でも、現代の技術で、今となっては制作不可能なものだとしたら、逆に
“新しいもの”
なんじゃないか。」
というもの。
なるほどー!!!
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先日のあじき路訪問のあと、同じく東山区のユニークな共同アトリエと、そこに入居する木工作家の方の自宅を尋ねる。
そこで彼女のいくつかの作品を見せてもらう。彼女が自ら説明してくれたのだけど、2つの傾向があることに気付く。
一つは、図面を描いて、モックアップを起こして制作する家具(プロダクト、といったらよいのだろうか)。もう一つは、彫刻を彫り上げるように、ざざっと木を削って(落として)形にしているスツールとか、木の食器とか。
また、後者の方に通じるように思うのは、彼女の自宅にあったもの。彼女が制作したものではなく、実家から譲りうけてきた作業台で現在はダイニングテーブルとして使用しているものや、誰かからもらった棚など、しっかり使い込まれた木の家具。
彫刻のように仕上げられたもの、それから自宅の家具などには、樹種やかたちを超えて、シンプルに木というものへの深い愛着とセンスを感じ、そんなふうに木を愛おしんでる彼女がとってもいいなあと思いました。
そして私もそんな素材があるだろうか、と振り返ってみました。
そうだな、私の場合はしいていえば自然光だろうか…。

荒々しさが気持よくて、年月を経てる感があるテーブル。
昨日は、友人の会社でサポートしている若いお母さんとその赤ちゃんに会いに出掛ける。
お母さんは今週月曜日に初めての出産をしたばかり。私の役目は、そのお母さんと赤ちゃんを撮ること。
赤ちゃんってとにかく綺麗で、なにもかもフレッシュで(生まれたばかりだから当たり前だけど)、赤ちゃんを撮るのもすごく興奮したのだけど、出産したばかりのお母さんが赤ちゃんを見つめたり、抱いたりする姿がすごく初々しくて、美しいものを見せてもらってるなあと思って、それを一生懸命写真に納めた。
私はプロの写真家ではないけど、写真を撮ることにとても執着していて、それって一体何がそうさせるのだろうとずっと考えていた。それで最近気付いたのは、私は何かものの関係を写真に納めたいと思っているのだな、ということ。
人と建築、人と風景、人と人という、言ってみればその場でしか見れないような、風景、佇まい、あるいは一瞬。
それに集中力をもって接して写真に納めるっていう行為が、緊張もするけど、とっても気持がいい。充実感がある。
昔は静物や風景や、人のいない建築の写真ばかり撮っていた気がする。たぶん変わってきたのはメキシコへ長旅にでかけて、街の写真を撮るようになってきてから。街の写真って、人がいないと面白くないのだ。
こう考えると、建築も人に使われてこそのものだと、思える。
写真とは別ですが。
昨日聞いた言葉ですごーく感動したのは、出産を終えたその若いお母さんが、ふと言った、
「実際に出産するまで、本でいろんな出産体験を読んだけど、
自分の出産は、他の人のどの体験とも違った。」
というもの。
世の中に出産マニュアルのような情報が溢れているけど、そのどれと異なっても、だからといって不安におちいる必要はないようです。ひとそれぞれのようですね…。
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昨年末、友人のオフィスづくりでペンキ塗りを手伝ったあと、年明けには、自分の部屋のペンキ塗りをした。
それは入居時に塗り残していた部屋の1/5くらいの部分。その壁面はドアが3カ所あって、マスキングテーブで養生するのが面倒だったせいもあったり仕事が始まったりして、塗り残していた。それを塗りきって本当にすっきり。
一度手を動かし始めると、道具を出したり、洗って仕舞ったりの億劫さが緩くなって、いつかやろうと思っていたことに取りかかってみたくなっている。
次は、椅子と鏡のニスの塗装を剥がして、オイル系の塗装に仕直そうと思っている。塗装のリムーバー(剥がし剤)とオスモカラー(天然オイル系塗料)は取り寄せました。週末の時間のある時にぼちぼちやろうと思ってます。
普段の仕事は鉛筆でスケッチしたり、コンピュータで図面を書いたりで、実物そのものをつくることってほとんど無い。模型を作ったりもするが、それも実物空間のモデルだし。
部屋のペンキ塗りのような些細なことでも、こんなふうに手を動かして実際のものをつくったり、手を加えたりすると、ほっとする。自分がちゃんとリアルなものをつくれるのだという安心感につながっているのだと思う。
そういう意味では、料理することも同じだな。コーヒーをちゃんと煎れたりとかも。
近々スプーンづくりの教室に参加するかもしれません。
写真はスプーンづくりの教室で彫って磨かれる前の材料段階のもの。ひとくちにスプーンといっても、かたちはもちろんのこと、木の種類や彫り方なんかによっても、かなり表情が異なったものが出来そうですね。
先週の木曜日、京都東山のあじき路地に友人と訪れる。
昨年に一度、京都市内に長屋の古家をもつ女性と、長屋がうまく活かされている事例見学という名目で訪れた。そして今回はそのあじき路地で店舗を構え、手づくりの革製品を制作・販売する女性を訪ねた。
その店舗はRimさんといって、手縫いで革製品を制作しているShop。革製品で手縫いなんて、初めて目にしたのだけど、手縫いのなんとも言えない風合いに素直に感動。手縫いといっても、もちろんきれいに整っているのだけど、なんというか、フリーハンドで引いた線と定規で引いた線が確実に異なるように、手縫いは手縫いの素敵な味があるのだ。
Rimさんところの商品は、一つの型(デザイン)で布と糸を選ぶことができる。そしてそれだけ縫い目に味があると、縫い糸を変えただけで同じデザインでもかなり表情が違ってくるのが面白い。形はシンプルなものが多く、それでいっそう手縫いの線がいい味付けになっていると感じる。
友人と二人でRimさんの仕事についていろいろと質問。
なぜ手縫いを選んだのか、どこで習ったのかとか、長屋の改装のいきさつとか。短い時間だったけど、いろいろと尋ねてみてRimさんから感じたのは、好きなことに向かって、ちゃくちゃくと進めていくという強さ。
とってもユニークだと思った受け答えはこれ。
私の友人の「どこで革製品をつくる技術を学んだんですか?」という問いに対して
「いわゆる“学校”のようなものは、無かったの。だから、独学で出来る分野なのかもしれないと思って、“教室”には通ったことがあったけど、あとは調べたりして自分で勉強したんです。」
というもの。
自分のやりたいことに対して、自分で道筋をつけていく。
これは週末講義の講師の方の著書“自分の仕事をつくる”の領域だな、と思った。
今のお店を構えるまでにいろいろな仕事をやっていて、例えばインテリアショップの接客のスタッフなども経験していて、それも多いに現在の仕事の多いに役に立っているといっていたこと。
「良いデザインが出来たり、革製品をつくる技術が優れている人は多くいるけど、それだけでは果たして、自分で店を構えてやっていけるかどうか…。」
というような、話にもなった。
人に仕事を頼まれるって本当に簡単なことではない、と独立する前からずっと思っていたのだけど、ここで上がった話も、まさにそれ。
ものづくりは人と人の間で成り立つものなのだな、改めて思う。
いや、ものづくりに限らず「しごと」ってものがそういうものなのだろうな。
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“ジャック・マイヨールの息の長さ”は、 2005年夏、リビングワールドの“窓”展で手に入れました。そして最近、手元にやってきたのは“太陽の光が地球に届く時間”と“月の光が地球に届く時間”。
時(とき)の長さが白い砂の量で測れて、太陽の光が地球に届く時間と月の光のそれの違いが ひと目で把握できるのが面白い。月の光が届く時間は、砂が少な過ぎてガラスに付着したまま落ちないんじゃないかと思うくらい、ほんの僅かな量。一瞬なんだなあとわかります。それに比べたら、太陽の光はもう少し長旅をしてくるよう。
この砂時計たちは、デザインオフィス・リビングワールドのIn this timeというシリーズで、私たちが通常何気なく使用している秒とか分とかでは無い単位の“時(とき)”を示しているとのこと。
実は今の世の中、便宜上あるいは商業上つくられた尺度のようなもの(=情報)がとっても多い。例えば大きなところで言うと、“時間帯の境界線”は、地球は球であるけど、それに純粋に沿うかたちではなく国境の形で決まってる。そこには政治の力や経済的な便宜上の理由が働いていたりして、あくまでも人工物なんですね。人間が便宜上つくった時間の単位の一つでしかないと言えます。
このお話は、やはり昨年の週末講義で聴いたもの。
別の時間の単位の一つとして、この砂時計があるのですね。

月の光が地球に届く時間は僅か。
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「In this time:the freediving world record surpassd a depth of 100m
(1976;Jacques Mayol)」
と、フレームに刻印された、ちょっと風変わりな砂時計をもっています。
1分とか3分とかではなく、ジャック・マイヨールがフリーダイビングで100mを超える深さを潜り、ワールド・レコードを出した時の息の長さ(潜水時間)の砂時計。
シュノーケリング愛好者の私は、フリーダイビングの神様の呼吸を手に入れることが出来るような気がして、この砂時計を見た瞬間に、「絶対欲しい!」と思いました。
目に見えない時(とき)の長さが、こんなふうにデザインされて形となって、それを手にとることが出来るなんて、とっても面白いですよね。
また、デザインする側から考えてみると、この砂時計のようにある形をとっているけど観る人によってイメージの分だけ広がりを持つ、あるいは多様な意味を持つ、みたいなものをつくれたらいいなあと思う。
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昨年12月、竹中工務店のギャラリーで“都市の記憶”という写真展をみた。
写真家村井修氏は、建築写真の第一人者として徹底した審美眼をもつ人物という印象が強かったのだが、この展覧会のために選ばれ展示された写真は、今迄知らなかった氏の別の一面を表現しているようでとても興味深かった。
1950年代の愛知県半田の人々、日常の風景にむける柔らかなまなざし、こちらまでワクワク感が伝わってくるような美しい海岸線をとらえる航空写真。
これらの写真からファインダーをのぞいている時の気持の高揚感が伝わってきて、これから察するに、きっと私の写真からも撮ってる時の気持ちを見る人にさらしてしまっているのだと、すごくリアルに感じてしまった。
(こう考えると写真を撮って、人に見せるのって少々恥ずかしいものなんですね。)
この体験をして、前から不思議に思っていたことの謎が解けた気がした。
友人が撮るメキシコと私が過去に撮ったメキシコの写真から受ける印象がかなり違って、どう撮ったらこんな風に違ってくるのか不思議だったのだ。
友人のメキシコは、キュートで鮮やかな色彩の中にも爽やかさがあって、どこかしら透明感がある。
一方私の撮るメキシコは、少し土っぽくって、街にみられる色彩は“押し”の強さを感じる。わずかに毒気のあるような鮮やかな色彩。
そう見えているのか、そう捉えたいとおもっているのか、どちらか解らないけど(両者かな)、それぞれのメキシコ観があらわれているのだな、きっと。カメラは現実をそのまま撮っているようで、実は表現の道具なのですね。

parammmの撮ったメキシコ、すごく田舎にあった修道院。
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某学校で製図+設計の講義をもっているが、本日は学生の作品の発表、講評。今年度最後の授業。
授業では、ベクターワークスという製図ソフトをつかっているのだが、そのコンピューターの計算による3Dの質感表現がキレイすぎて、考えこんでしまった。ガラスの表現とか、水の表現とか、必要以上にキレイなのだ。
何を危惧しているかというと、単純にコンピューターの質感表現がキレイなためにそれに満足してしまい、学生が自分のデザインの完成度を高める作業を止めてしまいかねない、ということ。その質感の綺麗さが、本当の素材の見え方とも異なっているとも感じられ、また問題。
コンピューターによる空間表現が間違っているとは決して思ってないし、模型をつくる技量を持ってない場合は、この製図ソフト、かなり手軽なツールである。
そのあたりの特徴(ある種の勘違いしやすいポイント)をどう学生に教えたらいいのか。
ものづくりはツールの選び方、使い方にかなり左右されるものだな…。
最近一眼レフカメラを再び使い始めて、ある程度マニュアルで操作できるカメラの特徴は“ボケ”具合(被写界深度)が調整できるとことであると、改めて実感。
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現在の私の住まいは、北向きの窓一つしかついてないワンルーム。
マンション自体が築年数が古いということ、それからこの北向きということで、広さのわりに家賃は安い。
日本では南向き信仰が強いので、北向きの部屋は敬遠されがちだけど、場合のよっては、そんなに悪くない、むしろ望ましいものとなる時もある。
まず、私の部屋は3階で、窓のついてる側は近くに2階以上の建物がなく、北側とはいえかなり明るい。はじめて部屋を見た時は、言われるまで北向きと気付かなかったくらい。
また、北側採光のよいところは、入ってくる光が基本的に反射光であるため、光が安定していて、光の色が白い(黄色くない)ことである。反射光であるというのは、太陽からの直射日光ではなく、空で空気中のなんらかに反射して届いている光ということ。
以前仕事で少し関わった画家の方のアトリエの窓はあえて北側窓からだけの採光であったし、やはり北側高窓だけの採光であった写真スタジオも目にしたことがある。
あえて北向きを選んだわけではないのですが、自分で白くペンキ塗装した部屋は、ときどきする写真撮影に丁度よい。
この部屋に届く北側からの光は、私の印象ではやわらかく、すがすがしく白い。
結構気に入ってます。
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昨年末に知人と話ていた時のこと。
独立して一人で仕事するっていうことに対して
「一人で仕事するものもちろん悪くないと思うけど、自分は何人か(チームで)で仕事することに、惹かれる」
というようなことを返してくれた。
それを聞いて、昨年11月の週末講義の講師の方が
「ものづくりはピクニック」
といって、彼の仕事の過程などを説明してくれたのを思い出す。
彼にとって“ものづくり”はある意味ピクニック、成果物も大切だけれども、その過程を楽しむこともとても大事なのだと。だから、プロジェクトのキックオフも重要で気を使う等々、話にのぼった。
これで気付いたのは、前の設計事務所に勤めていた私は、やはりピクニックに参加する側だったのだということ。
そして、今は一人だけどこれから誰かと一緒に仕事をするのは必然なので、今度は自分がピクニックの場を作る側になるのだとも自覚。
また、その講師の方は
「コラボレーションは掛け算」
と言っていた。
よい化学反応を起こせるコラボレーションは足し算ではなく、掛け算。
これも印象深い言葉でした。
一等楽しいピクニックは、掛け算になるということですね。
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11月頃から友人の新しいオフィスの準備してます。
設計というよりお手伝い、という感覚。友人のお父さんが、自分の趣味部屋として以前日曜大工で改装していたスペース(デスクも手づくりです)を、彼女のオフィス用にコストを睨みながら整えるというもの。
彼女の場合接客は外で行うので、ここはペーパーワークをする場所。シンプルで肩のこらない彼女らしいスペースにするのが、今回の目標。
今週は大一番のペンキ塗りでした。月・火曜日と友人の家族総出で、水性ペンキのつや消し白で壁と天井を塗りました。あと、やはりお父さん手づくりのデスクも壁に合わせて白っぽいオイル系の塗料で塗装。
とくにお父さんの働きが素晴らしい!
本当にスムーズにペンキ塗り終了。

おそらく初めて着たツナギ姿が、なぜかしら板についている友人。
昨日は電気屋さんに新しい照明器具をつけてもらいました。
ライティングダクトと白熱灯のスポットライト5灯。以前は蛍光灯だったので、新しいライティングでぐっと雰囲気が変わりました。これに加えて作業机にはデスクライト(今回はバイオライトを購入)を取付け、明るさを採ります。
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一昨日は知人のはからいで、東山区のとある路地にある長屋の家々を見学する。やっと2mくらいある路地に面して可愛らしい長屋が立ち並んでいて、そのうち6軒ほどは一人のオーナーの方が、ものづくりをする若い人たちに賃貸している。主に住居兼仕事場としてつかうことを前提として。

私がここに訪れるきっかけになったのは、京都市内にやはり同じような長屋をもつ女性から、相談を受けたため。長屋というからには、隣の家と柱・境界壁を一緒にしているにしているのだが、彼女のもつ家はその共有している柱壁が傾いている。共有なので、柱壁を垂直する工事もおそらくままならず、あまり予算をかけずに直すにはどうしたもんだかと考えていたら、知人がこんなところありますよと、似たような構成の路地+長屋群を教えてくれたというわけです。
昨日は、6軒のうちの3軒ほどにお邪魔して、そこで商っているお仕事について聞いたり、家をどんなふうにつかっているか、直したか尋ねたりしました。
私が単純に驚いたのは、私が相談を受けた長屋と同じように壁や柱は傾き、住人の方も「最初は酔った」というくらい床が傾いているのに(だから、キャスター付きの家具は置けないそう笑)、きちんと掃除されて心を込めて使われている家って、こんなに輝くんだということ!
なんともいえず、気持ちのよい空気が流れていました。
お気に入りのものを大切に扱うように、家も大事に住まうと、その扱い方が正直に見えてくる。
こう書いてる今も、その部屋の感覚がよみがえってきました!
ものを丁寧に扱うって、ほんと気持いい!
モノから空間が滲みでてました。
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「話すことは、その人に力になる」
講義2日目は出席者は講師を含めて10名、昼休みを挟んで5時間、ほとんどが皆でのディスカッション。
講義の始めのあたりで講師の方が皆に言ったのがこの言葉だった。
「書くことは、その人の力になる」
っていうのは、このブログと別のブログ“地球アパートメント”を綴り始めてから個人的に実感している。
自分の考えてることを、なんとか文章に置き換えることによって、ぼんやりしていたものに、輪郭が出来てくる。
文章に置き換えることによって、思考の矛盾がみえてきたり、結局のところ自分は何かいいたいのかも、書いてはじめてわかったりすることだってある(笑)。
そういえば今回、ディスカッションするテーマを決めるために、参加者のコメントをひとりづつ黒板に書いたことがあった。
「書いてみると、その言葉と自分の距離がとれる(客観的に見れる)。」
とのことだった。
文字に落とすというのは、ブログでもメールでもなんでも、そういう効果があるのだろう。
では、話す(言葉を発する)こととは、いったいどんなもので、どんなふうにその人の力になるのだろうか。
考えてることを、唇から発することによって、思考をリアルなものとして起こし、その重みを自分で背負うってことだろうか?
「話すことは、その人に力になる」
という言葉を聞いた時に、とても気持が高揚したのだけど、どうしてそう思えたのか、ここまで書いてみたけど、まだ説明できません(笑)。
わけわかんなくても、とりあえず惹かれたものは撮ってみる、というのも自分の力になっているような気がします。
たいてい理由は後で見つかります。いや、あとで理由をつけてるといった方が正しい?
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昨日の“自分づきあいを大事にする”の補足。
自分づきあいを大事にする、とは
“自分に蓋をしない”
つまり、昨日使った言葉で言えば“自己(=本当の自分、本音の自分)”を見ないふりをしない、ということ。
“自己”を無いことにしない、ということ。この考え方からすると、“個人”とは、自分が思考してつくっているものであったり、自分のことを見る他人が形づくるものであったりするのかもしれない。
それから自分に蓋をしない、とは、自分の気になる(=気に入った)ものごとに
“うっとりする能力”
を発揮することでもあるとのこと。
つまり、自分の感情・感性を活性化しておくことなんでしょうか…。
うっとり能力に長けてるなあ、と思う友人の結婚式のこだわりの引き出物。イタリア製エキストラバージンオリーブオイル、京都老舗の亀の子たわしと美しい干菓子。
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社会にでて、会社で働くことについての話題からきたのだろうか、
“自己”と“個人”は別であると考える方が楽である
と、講師の方が図で説明してくれた。
この場合、
“自己”とは感情部分の自分、
“個人”は思考を使って社会に対峙している自分、
としている。図では“自己(感情)”をオブラート状に“個人(思考的な自分)”が包み、“個人”が社会(また、会社)と接している。
端的な例だけど、会社の指示で自分の意にそぐわない仕事(たとえばノルマがきつすぎる仕事)を与えられ、やり遂げなければならないとする。
通常会社に雇われている以上、
その仕事はやらないといけないとするけど(=個人、思考的な自分)、
“意にそぐわないでいる自分がいる”ということ(=自己、感情)を、
自覚していることが大事ということだ。
「あ、自分は納得しないでいる」とか「自分は悲しんでいる」とかの“自己”にもしっかりつき合うということが大事ということ。
自己のない個人ほど、空虚で面白くないものは無く、自己を無理に押し殺し見ないふりし続けると、体にだって変調をきたしてしまう、とのことだった。
それにしても社会に出る前の学生が、この“自分づきあい”について、こんなに明解に知る機会に遭遇するなんて、凄くラッキーだよなあと羨ましく思って、それを同じ講義をうけてた知人に話したら、
「それは今のあなただから、すごくラッキーだと思うのであって、
学生はそこまでリアルに理解できるかどうかは、わからないよ。」
という、コメントが返ってきた。
そうか、そうなのか…。受け止めるタイミングってものも、確かにあるよなあ。
でもすごくいい説明だったから、凄くリアルに理解できなくても、この
“自分づきあい”
という図式は忘れないはず。
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ある著名なデザイナーが、スタッフに色を指示するときに、
「はい、これで」と、実物の桃を渡したことがあったという。
このエピソードをもとに講師、学生皆でディスカッション。
「色っていっても、実物の桃だったら1色じゃない。」
「色はもちろん、重さだって、香りだって、それに熟れ具合とか、実物の桃には、いろんな情報が詰まっているよね。」
「それを受け取るひとによって、感じ取る色が違うはず。」
こんな感じで、いろいろな意見がでる。
その中で聞いてハッとしたのは、ある学生が言った、
「桃を渡すことによって、色についてスタッフとコミュニケーションを始めようとしているんじゃないのかなあ。」
というもの。
つくりたいものが、なんとなく自分の中で(色に限らず)桃のイメージがあるとする。
そのような時にはスタッフと桃を眺め、観察しながら、お互いの感性を開いて交換し合って、面白いと思うものを探っていく。
物事の進め方というものは、様々な方法が存在して良くて、この場合は閉じていない、両方向意思伝達が可能な進め方といったらいいのだろうか。
桃を渡すのは、指示ではなくてコミュニケーションの始まり。
コミュニケーションを取ることを前提として、時として緩いイメージから始めて見るという方法。
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先週末にユニークな講義に参加する機会に恵まれました。
講義といっても堅苦しいものではなく、講師の方が自分の仕事を通して、ものづくり(ひいては仕事)について話し、その後に皆でディスカッションするというもの。
その方の仕事は前々から見ていたのだけど、仕事のプロセスや仕事に対するスタンスを、まとめてつぶさに聴くのは初めて。本当にノートに書き留めたいばかりで、二日間の講義終了後は、頭の中は飽和状態。いっぱいいっぱいでした(笑)。
今から書くのは、その講義の中でしっかり心に留めときたいなと思ったことのひとつです。
その講義の前日に会った友人が
“私は生活を大事にしている人と仕事がしたい”(だいたいこんな言葉だった)
と言ったのを聞いて、“うん、確かに生活は大事にしたい”と普通に受け取った。
前々から生活を大切に送るのは大事なことだと、自分でも漠然と思っていた。
そして週末の講義で
アウトプット(=何か作り出されたモノ、例えばデザイナーによってつくりだされたモノ)は
インプット(=その人の観察力、感受性によって受け取っている情報)があってこそ
という、言葉を聞いて、
“生活することとは、インプットそのもの”
なのだと、実感しました。
何か特別な体験をしたり専門の勉強をして情報を得ることだけが、インプットではないということ。
だから、日々の何気ない生活を丁寧に送ることが実は大事、ということ。
シンプルなことなんだけど、自分の中では“繋がったー!!”という目からウロコ的な出来事でした…。

“私は生活を大事にしている人と仕事がしたい”といった友人のすまいは、いつもすがすがしくて、とても心地よくて、リラックスしてしゃべり過ぎてしまいます(笑)。
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金曜日に松下電工の汐留ミュージアムで「重森三玲の庭」 展を観たが、本日は京都の重森三玲庭園美術館に友人と訪れる。


もとは京大近くの吉田神社の社家鈴鹿家所有の邸宅であったものを、重森三玲氏が譲り受けたもので、庭園、茶室等は氏の設計。(元来からあった樹木なども一部残っている)
庭に足を踏み入れた瞬間に、とにかく庭の密度の濃さに衝撃を受けてしまう。
庭と書院の密度が6対4あるいは7対3くらいで、石とか砂利とか樹木とか庭の方がモノ密集率が高いくらいの印象、建物負けそう(笑)。それなりに背のある石がめいっぱい配置されているからか、敷地いっぱいいっぱいに“強い”モノが詰め込まれている感じ。
管理の方の解説で、石組みは通常の自然の石が形成されている状態とは異なって、堆積層の模様が垂直になるように、石が設置されていることを知る。(これが庭づくりの定石か?)
それで、ますます石の印象が強く感じるでしょう、今迄体験したことないような、強烈な密度の庭空間でした。


書院に取付けられていた灯りが、空間に対してあまりにもぴったりなので気になっていたら、この間のために三玲氏の友人であったイサム・ノグチがデザインした照明とのことでした。納得、納得。
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昨年の夏なんですが、栃木県の益子にあるSTARNETに知人の展覧会を観に行きました。
ここには素敵なショップ、美味しいものが食べられるカフェ、Zoneというギャラリー等に使われるスペースがあります。関東の方ならご存じかもしれないですね。
この展覧会にいった目的は、風灯をみること。
風灯とは?詳しくは→コチラへ

この日の夜はよく風が吹いて、風灯がよく灯りました。
ところで、このZoneというギャラリーの建物、古民家の骨組み(解体したもの)をベースにして、新築したものだそう。京都の建築家の方が設計とのこと、デザインも素敵ですが、使っているオーナーの方の美意識も強く感じました。
どの空間も美しい!すがすがしい!とにかく気持ちがいい!
後で展覧会をした知人から聞いた話ですが、毎朝ここの建物をスタッフ全員で隅々まで掃除をするそうです。今思い出してみても、チリひとつ落ちてない感じでした。ギャラリーは土足で上がる場所なのにもかかわらず。
トップライトから降りそそぐ光も重要ですが、それに照らされてる空間がキレイでなければ、こんなにすがすがしく感じないかもしれません。
その「掃除を皆で行う」というのもいいなと思います。建物やモノを丁寧にメンテナンスしつつ大切に使っていると、目に見えるものとして現れてくるような気がします。(身近なところでいうと、オイルで仕上げをされた木製の家具、天然木のフローリングとか、塗りの壁とか…。)
単純に「丁寧にお掃除する」ていうこと、空間自体のデザインよりも大事かも(笑)。

ギャラリーとして使われていたスペースの前庭も素敵でした。大谷石が敷き詰められていました。確かこの石も古材だと聞いた気がします。
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